石川 昭光。 武家家伝_奥州石川氏

昭光 石川

元和7年(1621年)、村田にて賜った3,000石の知行のうち、2,000石を加増され、合高1万2,000石を嫡孫の宗敬に引き継ぐ。 以後は伊達氏に属し、御一門筆頭の家格を与えられる。 石川氏がこのような態度をとった背景には昭光の養父・晴光が健在であり、その母が田村氏の出であった事も要因の一つと考えられる。

以後、持光は白河氏との抗争を続けたようだが、鎌倉府方は次第に劣勢となっていった。 この年の8月に、昭光と嫡男義宗とその家臣は失意のもとに戦を避け城を退出したが、老臣溝井六郎は豊臣軍との決戦を主張し、三芦城中に火を放ち自決した。
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その結果、「奥州仕置」によって所領を没収され、石川氏は独立した大名として生き残ることはできなかった。 伊達成実は打開する為、大石定綱を調略することに成功。

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1590年豊臣秀吉の小田原征伐に、昭光は白川義親らとともに、刀剣・駿馬等を以って政宗に託し、太閤に献じて謝してもらうよう懇願したが、秀吉に参陣しないことを咎められ奥州仕置にて、三兄・留守政景、白川義親らと共に改易され、領地没収となった。
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石川氏は白河氏に圧迫され続けていたようで、以後、しばらく石川氏の動向は詳らかではなくなる。 この時、伊達政宗は自ら最前線で指揮を取り、鉄砲8000にて激しい攻撃を加えたとされ、城兵500人全員を討ち取っただけでなく、女・子供、犬に至るまで全て撫で斬りにしたとされる。

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すでに石川氏が南奥土着の豪族として、一勢力を築いていたことをうかがわせる。
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一方、石川庄の地頭職も北条氏が掌握するところとなり、石川氏はその地頭代として北条氏との結びつきを強めていった。

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慶長19年()、に昭光は兵を率いて参陣した。 翌年元年()正月、秀吉より出兵の命が伊達氏に下され、昭光も政宗に従う。
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家紋から石川さんの祖先をたどるのも方法だろう。 清顕はが輝宗と争っていたの妹ということもあって、輝宗の調停に応ずることはなかった。 水戸市石川は、偕楽園の西側に位置し、国道50号には石川町交差点もあるので茨城県の石川さんなら一度は訪れてみたい地だろう。

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新田開発と江合川の舟運で栄えた。
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側室:久松院• 殉死者7名。 敗れた持氏は鎌倉に幽閉され、翌年、自害して鎌倉府は滅亡した。 磐城石川郡の領主・石川晴光の養子となり、伊達家に仕えたが、小田原征伐に遅参したため所領を没収される。

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天正3年()9月、蘆名氏は西部の大槻(大槻町)を田村勢に攻められ、10月には蘆名勢が北部の久保田(郡山市富久山町)を攻め返した。 しかし、白河結城氏による石川庄への侵攻も盛んで、双方、合戦を繰り返した。
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112• カテゴリ: , , ,• 初代宗直は川村孫兵衛以前から北上川改修に着手。 その後は、父・伊達輝宗の死後、追い詰められていた伊達家は、一転して拡大に転じる。 このようにして、南北朝時代における石川氏の行動は隣接する結城氏との対抗関係に貫かれ、北朝方としての時期が多かった。

118• 3年()10月、2,000石を加増され、を賜わる。