馬部氏の著書に登場する「興福寺官務牒疏」は研究者の間では比較的よく知られた史料で、これにも朱智神社に関する記述が出てくるが、これが本当に椿井文書かも断言できるレベルにあるかは不明である。 なぜこれほどまでの「日本最大級の偽文書」が、見逃されてきたのだろうか? 本書の著者・馬部隆弘氏は、1976年生まれ。 桜しか見ていないのね。
8「佐牙神社本源記」なる古文書がある。 この古絵図は享和3年(1803)9月上幹椿井南熊軒平群広雄の手になるものもしくはそれを模写したもので、享和図の原図は東大寺絵所法橋俊秀によって康治2年9月に作成されたものを、橘友秀(南朝方・建武2年戦死)が嘉暦元年(1326)6月、画工秦友宜に模写させ自らも加毫したものである。
空海、最澄、日蓮、親鸞…歴史上の名だたる高僧について調べると「偽書」「偽書疑惑有」の史料は枚挙に暇がない。
これは現代の発掘現場で捏造が明るみになったのですが、その捏造が発覚しないまま100年、200年と経てば、嘘も真実になってしまったかもしれません。 そのほか、確認できない神社についても、上記の引用を見る限り、中世の事跡(焼失と再建)が日付単位にまで分っている特徴があり、これはまさに「椿井文書」の特徴でもあり、おそらく綴喜郡内のほぼ全ての式内社にその事跡を記した「椿井文書」(偽書)が存在するものと思われる。 怒りは覚えたものの、正直なところをいうと驚きはあまりなかった。
6「下司息長宿禰」らが康元元年(1256)に作成したと自称すると云う。
本物の顔をして広がる嘘はフィクションではなく、デマ、流言の類であり、まずなによりも嘘である。
次に具体的事例を考察する。 その捏造した文書は、時代を経て、じつは自治体史等に採用されていて、それを元に地元の文化財指定の根拠になっていた…。 上田耕夫 うえだこうふ という絵師が骨を絵図に記録して「 龍骨図 りゅうこつず 」を出しましたが、椿井政隆は龍骨図を筆写し「 伏龍骨之図幷序 ふくりゅうほねのずへいじょ 」とタイトルをつけています。
18しかし今回の犯人は違う。
馬部氏は椿井文書の特色として、大学などの専門家にも引用されてきた点を指摘する。
近世の綴喜郡式内社の比定の様子は以下の通りである。
ところが、知らず知らずのうちに現在に影響している江戸時代の偽文書も存在するのである。 この時、これ等の絵図の「壮大さ」には「本当にこのような壮大な伽藍が存在したのであろうか」という疑いと胡散臭さを覚えたものである。
その数は「近畿一円に数百点」に及び、現在も各地の自治体史で引用されている事例が「無数にある」という。
椿井は山城や近江、河内、大和などで、武家につながる家系だと示したい豪農や山の支配権争いなどに関わり、歴史的な正当性を与えるために多くの文書を創作したとされる。 近代以降も、椿井文書に基づき石碑が建てられ、史跡が指定された。
5また「:木下千代子模写本」では、入手絵図が小さくはっきりとは分からないが、八角二重塔のように描かれる。
これが繰り返されると、さすがに自身の無力さが情けなくなるとともに、こういう思いをしなくてもよいようにするためには何をすべきかと真面目に考えるようになる。
専門は、日本中世史・近世史。 その根源的な理由は椿井文書が 受益者の要請に応える形で創作された点に一端が求められる。 にもかかわらず椿井文書が今日まで命脈を保ってきたのは、人々の需要に応えるものだったからだ。
3しかし、どの文書を彼が偽作したのか、また、その内容は全てが出鱈目なのか、は別問題である。
皆無ということは、大光明寺の大伽藍は存在しなかったのであろうと判断せざるを得ない。
フィクションと嘘は異なるものだ。 最大の問題点としては、 「特定地域・特定人物に耳障りの良い話はソースがデマでも容易く利用されてしまう」という体質が普遍的なことである。
そして、この彩色・1m余四方の一枚は今後とも古の井手の姿をわれわれに語りかけてくれるに違いない。
椿井政隆(一七七〇~一八三七)が創り、近畿一円に流布し、現在も影響を与え続ける数百点にも及ぶ偽文書。
並河の「山城志」には綴喜郡の式外社として7社をあげ、内の1社は「松井村の坐す神祠」の記載がある。
30年近く前、凡庸な大学生だった私は、歴史学を学んでいても、学者を志せるほどの探究心はありませんでした。
つまり、偽書にも「真実の歴史」が含まれていることはあるのだ。 (馬部隆弘『椿井文書』158頁) これは式内社である「咋岡神社」の比定に関する問題である。
私にとっては野口悠紀雄さんの「超・整理法」や磯田道史さんの「武士の家計簿」がそれに当たります。