特筆されるのは、乱後ほとんどの大名が京都を離れ、在国するようになったことである。
したがって、河内、大和、南山城ではなお戦火が続行、拡大し、義就は同年中には完全に河内を制圧、大和を勢力下に収めて、1482年(文明14)には南山城に侵入、翌年には宇治川以南を実力占拠し、やがて山城国一揆を引き起こす。
宗全と勝元は、最初は協力関係にありましたが、応仁の乱が発生する前に敵対関係になったそうです。 山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていた。
お米を買い占め、高値をつけて販売することにより多くの利益を得ました。
つづめていえば「階級闘争史観」「下克上(げこくじょう)史観」のことであり、呉座氏はそれらに反発することに急であるように見受けられます。 応仁の乱当時、京都の治安を受け持っていた 侍所 さむらいどころ の長官は、守護大名 京極持清 きょうごくもちきよ という人物でしたが、あくまでもこの人は飾りで実際には、持清の重臣の 多賀高忠 たがたかただ が所司代の実務を受けもっていました。
諸大名の家督争いも水面下ではまだまだ続いていて、いろいろな人物が浮いたり沈んだり。
乱勃発で大内政弘は宗全の要請で領国周防から出陣、応仁元年に兵庫に上陸して8月23日に上洛、西軍と合流して東軍の脅威となった。
1336年、足利尊氏は後醍醐天皇を京都から追い出し、京都に天皇(北朝)を立て、1338年に北朝から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。
将軍家と守護大名、守護大名同士、各家の家督争いといった事例が各地にあり、これが応仁の乱の原因となっていくのだ。
一方で細川勝元・畠山政長・はそれぞれ御所の西側・北側・南側に布陣し、これを囲む状態となった。
それではまずいということで近臣や乳母たちも「結婚すればしっかりするだろう」ということで義政が20歳のときに当時16歳だった日野富子と結婚させるのですが、義政の政治に対する意欲は結婚前と何ら変わりませんでした。 応仁の乱がきっかけで、 戦国時代への流れていく、 いわば、歴史的転換点の 役割を果たした応仁の乱。 この乱をきっかけに、日本各地で戦乱が恒常化するようになります。
1大内氏は家督争いとは関係のない、瀬戸内海の制海権を理由に戦いへと参加します。 応仁・文明の乱で戦火を受けた記録の残る場所 足利氏が京都に幕府を開いた室町時代のイメージが変わってきている。
大内政弘は8月中に船岡山に陣取り、に畠山義就・朝倉孝景が攻めかかった武田勢を追い出し、武田勢が逃げ込んだに火を放った。